物語に登場する食べ物は、ただ空腹を満たすためだけのものではありません。時には、生きることや死ぬこと、家族との関係、文化的なルーツ、社会が抱える問題までを映し出します。翻訳家・三辺律子さんが、ピーターラビットの「うさぎパイ」や、児童文学・ヤングアダルト文学に登場する印象的な料理を手掛かりに、物語と〈食〉の関係をひもといていきます。
ピーターラビットの「うさぎパイ」
むかし、タモリがやっていた「トリビアの泉」という番組はご存じだろうか。「素晴らしきムダ知識」という副題の示す通り、「知っていても人生の役に立たない、でも知っていたら楽しい」「明日人に教えたくなるような雑学・知識」=「トリビア」(wikipediaより)を紹介し、それがどれだけ意外でびっくりするものかを競う番組だ。驚きを数値化する「へぇボタン」の「へぇ」という声を覚えている方もいらっしゃるかも。そういえば、この番組のおかげで、「Trivia」をそのまま「トリビア」と訳せば通じるようになったのは、ありがたかったっけ。
さて、その「トリビアの泉」のある回で、ピーターラビットが取りあげられた。ピーターのお父さんがお百姓のマグレガーさんにうさぎのパイにされてしまった、というくだりである。番組では、けっこうな「高へぇ」を獲得していたが、子どものころから、(出典元である)『ピーターラビットのおはなし』を愛読していたわたしにとっては、その高評価のほうが「へぇ」だった。
その後、所属していた大学院の児童文化学科の面々とも、〈自分の常識は他人の非常識〉を痛感したよね、と言い合った――われわれのあいだでは、「ルーク・スカイウォーカーの父親は〇〇(一応、知らない方のために伏せておきます)」レベルの共通認識だったからだ。
というわけで、かわいらしいうさぎのキャラクターに慣れ親しんだ大人たちを震撼させたうさぎパイだが、改めて振り返っても、子どもだったわたしは一度たりともショックだとか残酷だとかは思った覚えはない。
食べること、殺すこと、生きること
作者のビアトリクス・ポターは、1866年にヴィクトリア朝の裕福な中産階級の家に生まれた。当時、この階級の女性に唯一期待されていたのは、良き妻良き母になること。高等教育を受けることもままならず、自由な外出など論外だった。ビアトリクスは小動物を飼い、それをつぶさに観察して、スケッチを描くことで、その知識欲を満たそうとした。彼女は鋭い観察眼の持ち主で、実際、「ハラタケ類の胞子発芽について」という論文をロンドン・リンネ学会に提出している。しかし、有能で熱心な菌類研究者であったにもかかわらず、当時女性が同学会の会員になることは認められていなかった。
その才能がようやく行き場を見出した先が、『ピーターラビットのおはなし』をはじめとする絵本創作だった。ビアトリクスにとって、うさぎやりすはかわいらしいキャラクターではなかった。弱肉強食の自然界で生きる動物だったのだ。畑だって荒らすし、人間やキツネに捕まれば死が待っている。だから、ピーターのお母さんが子どもたちに「おひゃくしょうのマグレガーさんのとこの はたけにだけは いっちゃいけませんよ。おまえたちのおとうさんは、あそこで じこにあって、マグレガーさんのおくさんに にくのパイにされてしまったんです(ビアトリクス・ポター作・絵、いしいももこ訳『ピーターラビットのおはなし』福音館書店、2019年新版、6頁)」と言うのも、当然なのだ。
子どものわたしは、ビアトリクス・ポターの一連の作品を何度も何度も読むことで、この自然界の論理を“体感”していったように思う。だから、うさぎのパイ=残酷とはならなかった。食べることは生きることに直結している。時に、食べることは殺すことなのだ。それはもちろん、動物である人間にとっても同じだ。
もちろん、こんなふうに言語化して理解したわけではない。おそらく『子鹿物語』や『大きな森の小さな家』(今なら、『豚の死なない日』だろうか)などの作品を通して、自分の中でかみ砕き、消化し、吸収していったように思う。
翻訳が記憶に残した食べ物
成長しなければならない子どもにとっては特に、食べることは重要だ。そのためか、児童文学において食べ物はひときわ強い印象を放っていることが多い。『クマのプーさん』のハチミツ、『ライオンと魔女』のプリン、『赤毛のアン』のいちご水、『メアリー・ポピンズ』の「バタをつけたパン」や、「桃色のお砂糖でころもをかけた、大きなほしブドウ入りのお菓子」・・・などなど、覚えている方も、多いのではないか。
ちなみに、「プリン」は「Turkish Delight(トルコの甘いお菓子)」、「いちご水」は「ラズベリー・コーディアル raspberry cordial(ハーブや果汁を漬けこんだ濃縮シロップ)」、「バタをつけたパン」と「桃色の~お菓子」はそれぞれ、「bread and butter」と「a large plum cake with pink icing」。インターネットなどなかった時代の翻訳者たちの苦労がしのばれるが、それでもなんとか日本の文化圏に落とし込み、日本語に置き換えたからこそ、多くの人が大人になっても、こうした食べ物やシーンを記憶しているのだと思う。翻訳とは、単に言葉を置き換えるだけではないのだ。
物語の〈食〉が映し出すもの
10代向けのヤングアダルト文学においても、〈食〉は大切な要素となる。
心と社会の問題
ジャクリーン・ウィルソンの『ガールズアンダープレッシャー』は、拒食症を通して思春期の心と社会の圧力を描き、『タトゥーママ』は、栄養バランスの取れた食事の代わりに生焼けのケーキを出す母親を通して、子どもと母親双方の立場からネグレクトの問題を扱う。『キッズライクアス』(ヒラリー・レイル著)では、主人公マーティンの食生活の描写が、自閉症スペクトラム障害の困難を伝える。
ルーツとアイデンティティ
また〈食〉はアイデンティティのありようを伝えるツールともなる。カニグスバーグの『ベーグル・チームの作戦』では、ベーグルはユダヤ系の人々のアイデンティティの象徴だ。『シュトルーデルを焼きながら』(ジョアン・ロックリン著)のシュトルーデルにも同じことが言える。
『 ダリウスは今日も生きづらい 』(アディーブ・コラーム著)に出てくるペルシャ料理の数々は、主人公ダリウスが自分のルーツと親しんでいく過程を表している。アメリカ人であるダリウスの父もまた、チェロカバブをうまく焼くことで、イラン人の妻の親族(バーラミ家)に受け入れられる。
(父さんは、)バーラミ一族の全男子から浴びせられている、カバブの調理に対するアドバイスや批評をさばくのに忙しかったのだ。
「しっかり塩味をつけることだ。そこがとても重要なんだ」ジャムシードおじが言っている。
「もう少ししっかりつままないとな。じゃないと、串から落ちてしまう」ソヘルおじが言う。
「グリルをしっかり熱しておくんだ」と、バブー。「だが、熱すぎてもいけない」
おれは父さんに同情する一歩手前までいった。
一歩手前、だけど。
助けが必要か、目を合わせてみた。
でも、父さんはおれに向かってニヤッと笑って、バブーのほうに向き直った。
「わたしは、水の代わりに油を指に塗るんです。そうすると、あまりくっつきませんから。ただ、べとべとしてしまいますがね」
バーラミ一族の男子たちは深くうなずいた。
(アディーブ・コラーム『ダリウスは今日も生きづらい』三辺律子訳、集英社、2020年、326~327頁)
ここは、チェロカバブがひき肉を細長く成形し、串にしっかりくっつけて焼く料理だとわからないと、それぞれに一家言あるバーラミの男たちがああだこうだ言うおかしさは伝わらない。だから、その数ページ前で「カバブは、柔らかくした茶色の丸太みたいで、油と脂肪でギドギドしていて、串にしっかりくっつける・・・」と少し丁寧に訳しておいた。ちなみに、「一歩手前」は「Almost」。この言葉はダリウスの口癖だ。「生きられない」のではなく「生きづらい」、「イラン人(アメリカ人)」ではないけど「半分イラン人(アメリカ人)」、「ひどいいじめ」でなく「からかわれる」、「居場所がまったくない」わけじゃないけど、完全にあるわけでもない。そんなダリウスのありようを示す言葉なので、訳語をどうするか、ずいぶん考えたのを覚えている。
世界の文化の多様さ
『夢の彼方への旅』(エヴァ・イボットソン著)では、ブラジルへ行っても頑として現地のものを食べずに、イギリスから取り寄せたまずい缶詰を食べつづけるイギリス人一家が登場する。韓国系アメリカ人のリリーが主人公の『トラからぬすんだ物語』(テェ・ケラー著)では、あんこの代わりにぶどうジャムを入れた「お餅(ソルギ)」が大切な役割を果たす。各国にルーツを持つアメリカ人作家によるアンソロジー『エントラーダの子どもたち』では、豚の代わりに牛肉を入れた「タコス・アル・パストール」でメキシコ系の一家がユダヤ系の一家をもてなす。
最近では、ナイジェリアやガーナなどアフリカを舞台にした作品も翻訳され、ジョロフライスやキャッサバが登場する。チベット文学ではヤクのチーズ、シリアの絵本ではサフランケーキ、北朝鮮を舞台にした小説ではトンチミ。みなさんも食わず嫌いはせず、ぜひ各国の文学を味わってみてください!




